趣味と物欲

博多天神界隈を本と文房具(万年筆とインク)と電子ガジェットを探して徘徊しています。

英語とかガラパゴスとかフラット化とかで、つらつらと考えること。

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仕事上、英語できないと不味いのに相変わらず苦手です^^;
(本当の本音の部分:仕事上英語でウガーとなる度に、ああ英語の国に生まれていたら、、、と夢想するけれど、それと、大量の漫画やラノベを翻訳を待たず原文で読める幸せを秤にかけると^^;)
英語が重要なのは、色々な分野で英語が共通言語だから、どうしてそうかというとアメリカという国があるから、研究にも経済にも軍事にも他の国と比べものにならないくらいのお金をじゃぶじゃぶと使える国があったから、その国の主要言語が英語だから、英語の情報から良い情報が見つかることが多いから皆英語を使おうとする。他の国が多くの分野で一番になったら、その国の言語が共通言語になることがあるかもしれない。しかし、アメリカが建前であっても自由の国で他の国からどんどん人を集める限り、アメリカが一番であり続けるだろう。ロシアや中国は政治的に、フランスや日本は面積的にアメリカと同じことはできない。だからこれからも英語は共通言語であり続け、英語の重要性は変わらないだろう、結局私は苦手な英語から逃れられないということだ^^;
じゃあ、あらゆる言語が消えて、英語だけになるかというとそうはならないだろう、少なくとも今現在その言語を使う人が何千万、何億の単位でいる言語が簡単に消えてしまうとは思えない。日本語の場合、多くが日本列島という狭い地域に集中しているので、水爆でぼこぼこにされてしまったら、一気に絶滅危惧種になってしまう可能性があるので油断はできないけれど、ロシア語や中国語はたぶん大丈夫だろう。それでは、世界的にはフラット化されちゃって、バベルの塔以来の言語統一がされた方が良いのだろうか?、全世界の人が不自由なく意思の疎通ができるというそんな世界も魅力的ではあるが、今のように言語による文化圏があって、その中で独自進化するものがあって、それがあるとき英語に翻訳され全世界に広まるという、驚きに満ちた今の世界も中々魅力的なのではないだろうか。
さて、日本語脳が出来上がってしまった人が英語を自由自在に扱えるようになるためには、英語脳をもった別人格を作る必要があるらしい。

英語を身につけるということは、他言語を話す人とのコミュニケーションツールを手に入れることだけを意味するのではなく、今現在の人格とは異なる新たな人格(alter ego)を身につけることを意味し、それが人生・仕事の上で有用である。

それくらい日本語で育った者が英語を身につけることは難しく、これからも英語が苦手であり続けるだろうと思う。では日本語の強みは何だろうと考えると、それはこの異様なまでの識字率の高さではないかと思う。以前、「そりゃ識字率は高くなるはと思う日本語」 id:pgary:20080504/p1 というエントリーを書いたことがある、子供の成長を見ていて気づいたのは、日本語が話せる人なら、とりあえずひらがなが読めるようになれば、簡単な本は読め、更にふりがなを読みながら漢字を覚えていけるという、非常に効率的なシステムができていることだ。たったひらがな52文字、英単語を何千と覚えることを思えば、そのコストは非常に低い。幕末の頃からの日本の識字率の高さは、寺子屋というシステムだけでなく、日本語で本を読めるようになるまでのコストの低さが大きな要因ではないかと思う*1
高い識字率(読者の多さ)を反映してか、かなり専門的な書籍でも翻訳され、専門書のみならず、新書や文庫本にまでなるのも面白い。翻訳されるまでのタイムラグや誤訳の問題はあるが、最終的に原著で確認することを厭わなければ、とりあえず日本語で読むことができるのはありがたい。最先端では英語でやり取りがされているので、やはり英語ができないと駄目だ、というのはその通りだと思うが、基礎から最先端までの間を日本語で埋めることができる環境があるというのは凄いことだ。インターネットにより、知のハイウェイができ、誰でも終点近くまで早く到達できるようになったと言われるが、ハイウェイにも英語の壁はある、終点近くまでは翻訳された道を進み、最先端に着いたら英語で勝負する、という方法が、主言語として日本語を使うものの戦術でこれからもあり続けるのではないだろうか。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

才能ある人は英語くらいできるのが当然という前提だったり、人の価値を英語ができるか否かで決めるような話になると、迷走するので、そろそろ「日本語が亡びるとき」という本とは分けて論じた方がよいのではないか。結局、良いとか悪いとかを日本の中で決められず、英語圏に価値判断を委ねているから、英語が唯一の基準みたいになってしまうのでしょう。

ガラパゴスについての妄想、英語圏の人が久し振りにガラパゴスを訪ずれてみたら、「ちょw、ガラパゴスの進化早すぎwwやべえwww」とかなると面白いのになあと思ったり。
日本語について思うこと、そろそろみんなで、「日本語って簡単だよ〜すぐ読めるようになるよ」、と世界にアピールしてはどうか? 日本人は日本語難しいと思い過ぎ、そんな思い込みが激し過ぎるから暗号化を疎かにしたり、日記やメモの処分を疎かにして情報ダダ漏れになる(太平洋戦争当時)。
「大量の漫画とラノベを翻訳を待たず、原文で読める幸せ。」については誰も言及しないのか。↑自分でしました^^;

近代文学危機論自体は陳腐なのだが、そこを日本語危機論というパッケージングにして間口を広め、英語圏での生活体験や英語教育というパーツによって、海外在住経験のあるIT技術系との妙な出会いが起きて、すごい化学反応が起きた!というのが、自分の中で大変興味深かったので、思わずまとめてみた。

あれだけの注目を集めた理由はいくつかあると思います。まず、英語が下手(笑)。英語が下手だとみんな顔を上げるんです。変なやつがおかしな英語で一生懸命プレゼンしているぞ、と。さらに、よくよく聞いていると、どうやら発想が自分たちと違うぞ、という感じになる。

下手な英語でも、こいつの話を聞きたい、と思って貰えるようになれということか。

ようするに、水村は20世紀のポップカルチャーの歴史に対して、あまりにも無知なのである。そして、ポップカルチャーに無知な人が、パーソナルコンピュータとかインターネットについて語るから、なおさらものごとがややこしくなるのである。彼女の本がトンデモ本になってしまうのは、じつに、ただそれだけの理由なのだ。

なるほどと膝を叩いた説明。
上の方で、「大量の漫画とラノベを翻訳を待たず、原文で読める幸せ。」ということを書いたけれど、他にもある、「翻訳を読んで原文を読む、一粒で二度美味しい幸せ。」「複数の翻訳本が出ているような有名な本なら、翻訳を選べる幸せ。」、「映画で吹替した声優を楽しめる幸せ。」、日本の翻訳力すげえ。これは絶対維持するべき。

確かに英語が使えると超ウルトラ便利なのは間違いないのですが……
でもですね、僕個人としては、日本語オンリーなのも悪くない、とも思うのです。
それこそが、今の日本を、狂ったようなガラパゴス的独自性へと導いたんじゃないかと思うからです。

SKKを使えってことですね! id:pgary:20080218/p2

引用されて突っ込まれていた、光栄です^^; 読んでいて下記の話を思いだした、水産学とか垂直磁気記録方式とか。

ほんとうにスゴイ論文は日本語で書いても外国で読まれる

我々がもしスペイン語をしゃべっていたら、歌舞伎のような古典芸能は生まれていません。「おじぎをする」という習慣も存在しないでしょう。皆さんは、「思い」と「ことば」はどちらが先だと思いますか?頭の中で「思う」から言葉にできるのか、「ことば」があるから思うことができるのか。正解は後者です。言葉がなければ「ものを思う」ことができないのです。

本当はこのモデルの図をそのまま引用出来るといいのですが、ちょっと画像が見つからなかったので簡単に説明すると、ガーベイらのモデルによれば、研究者は研究を終了したのち以下のような順序でその成果を公表していくとされます。

最近は、特許出願が終わるまで発表できなかったりもしますしのう。

必要なのは世界性の認識であって、近代の国語は、近代時点での世界性認識の結果にすぎない。現代的世界性の認識のもとで、「国語」は変容していくのは自然なことである。今はその過渡期であり、多くの日本人はいま世界性を見失っているかもしれない。筆者の憂国の思いもわかる。でもそれを安易に復古的な考えに結びつければ、世界性の認識を見誤ることもあるだろう。

最近、漱石と同じ時代の万年筆に関する文章を書き写してみましたが id:pgary:20081118 id:pgary:20081122 あの時代の人も自由だなあと感じました。現在で言えば、携帯小説くらい?自由だと思う。唐突に横文字が入ってきたりするし、ローマ字で書くように早くならないかな〜とか言ってるし。寺田寅彦も、Sukinamono Itigo Kohi Hana Bizin Futokorode site Utyu KenButu と詠んでいますし、日本語昔から何でもありです。

*1:江戸における就学率が当時の諸外国より高かったことも事実なので、寺子屋による教育の普及が一番の要因であるとは考えられるが。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%AD%90%E5%B1%8B